町から寄せられた稲庭の風景を掲載するコーナー

稲庭城を皮切りに、稲庭の礎を築いた数々の偉人・文人を紹介するコーナーです。

随時更新してまいりますので、乞うご期待ください。

 

  • 稲庭城

文治五年(1189)奥州六郡の主、平泉の藤原泰衡を平定して天下統一を成し遂げた源頼朝は、その論功行賞で下野国都賀郡の武将、小野寺太郎通綱(道綱ともある)と其の子四郎重通(重道)に対して、羽陽雄勝一郡を与え、重道を留めたと云われる。

現在古城址の入口に「稲庭城跡」の碑と、近年稲庭城址史跡保存会の建設による「史跡稲庭城址の碑」が二面、立派に建っている。

当地方の史料文献である『奥羽永慶軍記』には、「小野寺通綱・・四男四郎重道・・羽陽雄勝を賜わり稲庭の城に居住す。」とある。これが建久元年(1190)または、建久四年(1193)の稲庭城の築城記録といわれる。

しかし、小野寺氏系図には、重道(正系図、下野小野寺氏系図は、四郎重道)を太郎として『吾妻鏡』二巻、九六頁、第九、文治五年七月の項に、奥州進発、鎌倉勢の一千騎の中に、小野寺太郎道綱とあり、また、大河兼任、叛乱を起こし、平泉より一の迫に討って出たから、足利義兼、小出政宗、葛西三郎清重、小野寺太郎道綱ら、壱万騎でこれを平定したとある。

建久元年(1190)十一月、頼朝京都上洛の先陣、重臣軍列五十三番に、小野寺太郎道綱とあり、頼朝の先ぶれ随兵として参加している。

建久二年(1191)二月、右大将頼朝、鶴が岡若宮八幡参拝の折の随兵の中に先陣の随兵として、太郎道綱がいる。その子小野寺太郎秀通と見え、『吾妻鏡』第二十二、建保二年(1214)七月二十七日、三代将軍実朝と尼御台所政子の大慈寺供養の御剣の役に小野寺尢左衛門尉秀通が随っており、文禄三年(1236)新御堂建立により、将軍家参堂の随兵の中に、小野寺小次郎左衛門尉と其の子、四郎左衛門尉が加わっている。この記録から見ると、左の下野小野寺氏系図からして、小野寺通綱が雄勝を地頭として賜っても、通綱も秀通も雄勝稲庭には駐在しないで、一族は又腹の子を留めていたと思うが、稲庭小野寺系図には小野寺重道が仙北小野寺氏の第一祖で、以後414年間、秋田県南の仙北地方、即ち雄勝、平鹿、山本(仙北)は小野寺時代となったのである。

重道が稲庭に入部していないと思う点は、「語伝仙北之次第」によると、一、御連技一人、庄内遇泉(大泉)に御入部、後に仙北雄勝に御移り・・・云々とあって、一族の一人を地頭として派遣し、重道より三代の経道(実は三浦泰村が二男を嗣子なき故に養子とするが)が、大泉庄(現在の山形県鶴岡市地方)より、羽州稲庭に移住するとあることから、稲庭城は経道のころから築城による経営とみるべきであろう。

しかし、一部の史論には、小野寺氏の雄勝及び仙北の入部には、稲庭城に住む重道系と仙北平鹿地方、横手を中心とする経道系の二大系統があるのではないか?という説も信ずるに足る論といわねばなるまい。

それにしても稲庭城主の勢力は、雄勝一円に君臨する貫禄と実力は示していた。家柄によるが、雄勝の要所・稲庭・川連・大舘・三梨・湯沢・西馬音内・小野や平鹿郡内の要所にも、一族か重臣を必ず置いて、領地の支配に当たらせ、周囲を着々と武力をもって広げ、平鹿郡の要地・沼館・横手に進出した。

一説には、経道・沼の柵跡か、横手の大鳥城跡に進出し、孫通有の時に(小野寺孫太郎、弾正少弼)雄勝・平鹿・仙北三郡の庄主也とあって、小野寺氏の勢いは、「武威近国に振う。出羽国中第一の豪族たりき」ともある。

城跡は、上の図にあるように、国道398号線の稲庭三嶋から早坂に進むと、左側に「稲庭城址」の石碑が建っており、この小道を登ると稲川町を一望に見渡すことができる100平方メートル程ある広場に着く。ここからは、南、西、北の三方にすばらしい展望が開け、全町はもとより北方遙か、平鹿、横手地方を望むことができる要害の地である。この広場は、下からおよそ、200メートル程の高さにある二の丸で、いまでも礎石に統治の柱跡が残っている。さらにこの奥150メートル東に、上館(本丸)があり、二の丸、本丸に空壕が築かれ、南北は険しい崖となり、西は皆瀬川を下にかかえた断崖に築かれた中世に城館跡を残している。

稲庭城主と関係ある史料を取りあげると、奥州持渡先達壇那系図に貞和五年(1349)

一、 出羽国仙北山本郡・いなにハ殿、かわつ良殿、 

  此人々は大貳殿先達申て候。 常陸法眼殿弟子の大貳殿にて候。

 貞和五年十二月二十九日

二、 建立し奉る仁王門一字。願主、小野寺経道公、応永三十二年(1425)五月

とある。羽後町杉の宮神社に再建、修理している。

これは、初代経道を敬慕する後代の九代氏継か十代泰道の時に建立されたものであろう。また稲庭郷三熊野神社に、大永七年(1525)五月懸仏各一躰を奉納したのは、小野寺上野守道俊(後の晴道)である。

このように、200年、300年と続いた小野寺氏の泰平も天正、文禄のころになると小野寺の強力なライバルが出現し、小野寺家の命とりになった。その名は、山形城主、最上義光である。最上氏とは以後、山形最上郡と雄勝郡を戦場にして、幾度も戦を交えねばならなかった。

十四代、小野寺蔵人頭道勝に至って、408年続いた稲庭城は、最上義光の弟、清水大蔵大輔義之、楯岡豊前守満茂、長瀞内膳、鮭延愛綱等の手勢により落城した。時に慶長五年(1600)四月といわれている。

慶長七年(1602)佐竹義宣、水戸より秋田に移封されて以来、十四代佐竹義堯に至るまで268年間、佐竹候の管轄下に入ることとなる。

山岳と山陵に囲まれたところに鎌倉時代より、小野寺文化が形成された。いまその面影が求める手がかりは、まず城跡の探究であろう。

【「稲川町史」より抜粋】